不当を為す、これを諂いという。
為すべきを為す、これを勇という。
鬼は鬼神の鬼で、死して朽ち果て地に帰するものをいう。
対して神は死して天に昇り散じてあまねく広がる気の如きものをいう。
孔子は礼記、祭義において「生あるものは必ず死し、死せば必ず土に帰す。これを鬼という」と述べている。
また「物の精によって制(おさ)めて之が極と為し、鬼神と名付けて人々の規範とした。だから誰もが畏れ服するのである」とも述べる。
つまり鬼神とは人々の誰もが畏服し則るものであり、言葉では表しがたい根源的なものをいう。
それは絶対的に尊び、そして推進される、これを人の心に求めるのならば“義”に近い。
孔子は「其の鬼でないのに祭るは諂いだ」という。
「其の鬼」とは何なのか。
それをここでは「祖先」と訳したが、それは“義”となり得るところであり、心の底から“想う”ところのものである。
義は理屈ではない、想うのも理屈ではない。
過去から連綿と受け継がれてくるところがあって、自身もその一部として存在し、そして子孫へとつなぐ。
その一連の大きな流れの中にあるからこそ、理屈抜きで共に在り、理屈抜きで志す。
その一つの顕れが日本の武士道である。
武士道は家を大切にし、名を重んじた。
それは一個の身ではなく、永遠の流れの一部として自身を自覚していたからこそ、生を超えて生きることに邁進したのである。
その邁進はまさに“勇”である。
過去に日本人が尊び重んじた武勇には、自分一個ではない、大きな流れの自覚があった。
そして私達日本人は、それを祭るに相応しい民族であった。
それは過去と遊離せず、共に想い、共に在ることのできる、伝統ともいうべき精神である。
其の鬼でないのに祭れば諂いだが、其の鬼であるのを知っていながら見て見ぬふりをするのは勇がない。
私達は祖先が到達した一つの集大成を、その根源を、よくよく学び、そして次の世代へと継いでいかなければならない。
それが現代を生きる私達の果たすべき“義”というべきものであろう。